人類の幸福の実現を願う人材の輩出を目指して
──自分の存在価値が見えなくなってしまうのですね。
東京工業大学では、2016年にリベラルアーツ研究教育院を創設しました。学士課程のみだった教養教育を大学院の博士後期課程まで延伸し、同級生同士あるいは学年を越えて相互に刺激を与えながら学び、社会との関わりを認識し、自分を深化させ、深い教養に裏打ちされた尊敬される人材の育成に取り組んでいます。
リベラルアーツとは「人間を自由にする技」ですが、これからは科学技術自体が人間を自由にするか否かが問われる時代となります。つまり科学技術自身がリベラルアーツになり得るかが問われているのです。便利で豊かなはずの科学技術ですが、悪用されたり、戦争を生み出すこともあります。それと共に、科学技術が進歩すればするほど、それを裏打ちする、人間とは、幸福とは何なのかということが鋭く問われるようになるのです。だからこそ、科学の最先端を極める人間は、人間や社会、文明、歴史といったものにより鋭敏な意識を持たなくてはなりません。
本来、科学技術とは自由な魂と結びついて新たな創造を成していくものです。何が人類にとって幸せなのかを考え、その実現を目指して研究することに意義があります。そうした科学者を育成するにあたり、リベラルアーツはいわば「生きる意味」そのものを考える基盤となる学問なのです。
この世界にはいろいろな民族がいれば宗教もあり、同じ社会の中でもジェンダーやジェネレーション、生まれ育った場所によってモノの見方は変わってきます。一方で、理工系の世界においては「正解は一つ」であるという考えが優勢です。
でも、実際にわれわれが生きる社会には、多数の正解が存在します。一人一人に多様な正解があり、違う正解を持つ人たちと調和して生きていかなければなりません。そういう意味で、文化の多様性を学ぶということは他者理解を促し、自分自身をも深く見つめることにつながります。自分を生かしながら他者をも生かし、社会をより良いものにしていくにはどうしたらいいかということを日々考えながら講義をしています。
ウィズコロナ、アフターコロナのこれからの時代、相手に何ができるかを考え、コミュニケーションをとり、創造性を発揮し、積極的に問題解決に関わっていくといった「主体的な知」を身に付けた人材、自分だけでなく全ての人が「かけがえのない存在」なのだという視点で、日本社会と世界を見ることができる人材が求められると思います。リベラルアーツ研究教育院の活動は、そうした人材の輩出に大きく寄与していくものと確信しています。
──自分自身のかけがえのなさを発見することが大切なのですね。そのお話については「後編」にてご紹介したいと思います。
(後編に続く)
うえだ・のりゆき
1958年東京都生まれ。1982年東京大学教養学部文化人類学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科文化人類学専攻博士課程単位取得退学。医学博士。2012年東京工業大学リベラルアーツセンター教授、2016年同大学リベラルアーツ研究教育院院長。2022年4月から同大学副学長。著書は『生きる意味』(岩波書店)、『かけがえのない人間』(講談社)、『目覚めよ仏教! 〜ダライ・ラマとの対話』(NHK出版)、『スリランカの悪魔祓い』(講談社)、『人間らしさ〜文明、宗教、科学から考える』(角川書店)、『覚醒のネットワーク』(アノニマ・スタジオ、他)など多数。