東京工業大学 上田紀行副学長(前編)

「自分とは何か」を知り、かけがえのなさを発見する

東京工業大学 上田紀行副学長

──「自分とは何か」を知ることに人々が向き合い始めたのですね。

 

 はい、そう思います。これまで書いてきた本の中でもたびたび「自分とは何か」ということについて言及してきました。その軸には自己信頼感というものがあると考えています。

 

 一つには、人からの評価をベースにした自己信頼感です。これには、年収が高い、人よりも勉強ができるといった自分のパフォーマンスに対する評価を得て「自分はひとかどの者だ」と認識するポジティブなものと、後ろ指を指されないように、ひたすら自分を透明化して、人から悪い評価をされないようにするネガティブなものがあります。いずれも「他との違い」によって確立されるアイデンティティーです。

 

 1980年代に台頭した新自由主義の流れの中で、自分がどれだけ有能で、どれだけもうけられるのか、他者との差を際立たせて良い評価を得なさいと、ある意味で他者との差異化をどんどんつけていくというのが、ポジティブに捉える自己信頼感です。

 

 『覚醒のネットワーク』で詳しく述べましたが、他者との差異で語る「私」は、「私」に付随している情報の集合であり、地位、肩書、財産、ファッションなど、自分の外側の情報が自分自身と同一化したものです。それはそうした物への執着を引き起こします。高級車に買い替えた時の充足感、昇進した時の「これで昨日の自分とは違う」という感じを得るために、物や情報を強化し続けることになります。さらに、必要以上に他との違いを際立たせようとする傾向があったり、自分が幸せかどうかということも他の人と比べてしか考えられなくなってしまうということもあります。

 

 自分を透明化して、人から悪い評価をされないようにするネガティブな自己信頼感というのは「他との違い」を極力なくしたところで得られるものです。これは『生きる意味』で述べたことですが、日本人には人の目を非常に気にする人が多いということと深く関係しています。他の人から「あの人は駄目だな」と思われることをすごく恐れる民族性、そういう文化の中に生きています。人から見られていることを過剰に意識するあまり、自分を透明化してきたのです。自分の色を出したら嫌われる、排除される、いじめられると思っている人が非常に多いです。こうした人の目を気にする傾向は、スマートフォンの普及やSNSの浸透によって同調圧力が加わり、さらに激化しています。

──人からの評価が自分自身の目的になっていると。

 

 そうです。それとは別に自己信頼感にはもう一つあります。評価は関係なくて「そもそも私自身の存在が尊重されるべきものだ」という自己信頼感です。「私」というものは交換不可能な存在であり、そのもの自体が限りなく貴重なもので、なくなってしまっては絶対に困るといった感覚で、それを私は「かけがえのない」という言葉で説明してきました。『かけがえのない人間』の中でも詳しく述べていますが、自分の人生を生きていると思っていても、実は何者かの道具として、誰かと置き換え可能な存在になっていて、かけがえのない自分ではなくなってしまっていることがすごくあります。長年の大学教員生活の中で、こうした「かけがえのない自分」という感覚を持っている学生が圧倒的に少なくなってきたと感じてきました。

 

 大学では、教員が講義で話す内容はあらかじめ決まっています。学生が出席しても家で寝ていても、その存在とは関係なしに講義は同じように進行していきます。それらの講義は「自分なんかいてもいなくても毎日世界は同じように動いていく」という強烈なメタ・メッセージを学生に与え続けていたわけです。もちろん、教えている教員は、学生たちのことを思って時間をかけて準備し、真剣に講義をしていることは確かです。ただ、大教室での講義という形態そのものが「自分は世界の進行から排除されている」「どこにも身の置き所がない」という状態に学生を追い込み、結果として「自分は世界に何も貢献できない」という意識を持たされてしまっていたのです。

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