神奈川県箱根町
内田特任教授が神仙郷の建物の魅力を語る
箱根町強羅の名勝神仙郷の日光殿で「第3回神仙郷・ガーデンセミナー」が10月12日に開催され、名勝・神仙郷保存活用委員の一人で、日本の近代建築史や近代住宅史の研究家である内田青藏神奈川大学特任教授が「神仙郷の建物たちの価値とその魅力について」をテーマに講演。会場には、神仙郷や日本の建築に関心を持つ70人余が集まりました。
内田特任教授は、文化庁が近年、古い建築だけでなく戦後のものについても文化的価値の調査を進めていると伝え、自身は戦前、戦後の建物が入り交じって美しい景観を展開する神仙郷の建築物に価値を感じていると強調。神仙郷には多くの建物があるにもかかわらず、庭園とのミスマッチを感じないのは、高低差を巧みに生かした配置と庭園の様子との見事な融合によると述べ、そこに大きな魅力があり、世界でもまれな場所だと語りました。建物は生活を維持するためだけでなく、人と自然を一体化させ、自然の美しさを伝える装置でもあると述べ、神仙郷の建物にはそうした人と自然を結ぶ意図を明確に感じると訴えました。
神仙郷の建物は、設計の上で①「建築家が関わったもの」(観山亭・日光殿・山月庵)②「岡田茂吉自身がかかわったもの」(箱根美術館・箱根美術館休憩所・箱根美術館別館)③「設計者不明のもの」(神山荘・萩の家・花月亭)の3つに分類できると解説。
神山荘に言及し、藤山雷太氏の別邸として建築され、設計者が不明なことや、平成13年の文化財登録時点で昭和10年頃と思われていた竣工年は、その後の調査で藤山氏が強羅に別荘を構えたのが大正10年ごろだったことが分かったとして、今後、竣工年を変更する可能性を示唆しました。一つの建物でありながら和風と洋風の建物で構成される神山荘は、西洋文化が日本に入ってきた明治期における上流層の住まい形式の特徴を持つと解説。傾斜面に建つことや、建物内の一部では自然の岩を加工して階段に用いるなど、非常に難しい課題を解決している住宅だと説明。岡田茂吉がここを始まりに地上天国のひな型づくりを始めたことを取り上げながら、神山荘は単なる建物ではなく、自然と一体化した伝統的な美意識を感じさせる魅力的な建築だと語りました。
観山亭と日光殿の設計を手掛けた建築家・吉田五十八氏に言及。江戸時代に完成した数寄屋建築の近代化に取り組み、見た目がシンプルなものへと発展させた功績などを紹介しました。その上で、昭和21年に竣工し、同22年に湯殿、同25年に竹の間と書斎が増築された観山亭に言及。岡田が設計した居間に触れ、明快な美意識を持って造られた空間は、玄人並みのデザインだと強調。吉田氏の設計による竹の間と書斎には、見た目のシンプルさの反面、非常に手間が掛かる処理が施されていると語り、岡田は吉田氏の伝統の枠を越えた新しい建築デザインを評価し、建物に応用したのではないかと語りました。
日光殿に触れ、吉田氏の設計で昭和24年に竣工した後、それまでの建築制限の解除を受け、同26年に増築されたことを確認。石楽園に通じる内玄関には、柱を壁の中に隠してシンプルに見せる吉田流の手法が表れていることや、床の間は吉田流ながらも伝統的な手法が重んじられていることを紹介しました。
昭和25年竣工の山月庵に話題を進め、岡田が武者小路千家12代家元の助言で、数寄屋師の3代目木村清兵衛に設計を依頼したと説明。物資が乏しい中、京都の磨き丸太や屋久杉などの銘木を集めて建設されていることを紹介。進駐軍の占領下で民主化が進められていた当時は、過去は捨てるべきものとされていて、和風の伝統文化を再建することは困難な時代でもあったと語り、その中であえて、伝統を強く意識しつつ、新しい時代に適応しようと建築された山月庵であることを解説しました。
最後に神仙郷の建物の特徴を総括。岡田が、多彩で豊かな自然とその眺望に恵まれた地で、病気や貧困、戦禍と無縁の真善美に満ちた理想郷、地上天国の具現化に取り組んだことを確認。芸術作品に触れることで人間は向上し、さまざまな苦難を解決する力にもつながっていくとして、建築はそのための装置でもあると強調。神仙郷における建築を通して、時代の流れの中で変化する日本の文化や美意識を感じると訴えて、講演を結びました。
*過去の神仙郷ガーデンセミナーはこちらから(→第1回、第2回)
主催/名勝神仙郷活用実行委員会、協力/名勝神仙郷保存活用委員会、㈱Feel The Garden、協賛/神奈川県登録有形文化財建造物所有者の会、後援/神奈川県教育委員会・箱根町教育委員会