S字結腸の末期ガンになった夫へのターミナルケア

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沖縄県  I・Yさん(80歳、女性)

〔家族へのガンの告知〕

 昭和61年4月、幼児園の園長を務めていた夫は、職場での集団検診の結果を受けて、「精密検査するように言われた」と帰ってきました。そのころ、夫は胃の調子が悪く、「腸カタル(腸炎)だ」と口にすることがありました。
 夫は、日本ボーイスカウト沖縄県連盟の理事もしており、6月に大きな行事を控えていて、その準備のために、すぐに病院へ検査に行くことができませんでした。
 職場の検診から3ヶ月後、U総合病院へ行き精密検査を受けました。検査が済んで数日経った7月20日、病院から電話があり、長女が結果を伺いに行きました。病院から戻って来ると、長女は「パパは末期のS字結腸ガンで、あと6ヶ月の命と言われた」と話しました。その瞬間、私は頭の中が真っ白になってしまいました。
 このことを夫に伝えるかどうかについて家族で話し合いを持ちました。夫の妹の、「兄さんは気が弱いから伝えない方がいい」との意見を取り入れ、告げないことにしました。
 病院からは、手術はした方が良いとの判断でした。夫は腸カタルで「手術をしたらよくなる」とも言っていたので、そのことを理由にして手術することになりました。

〔治療法の選択〕

 8月5日の手術の日、息子が主治医にお願いしたのは、河内省一先生が勧める治療法でした。その治療法を説明し、お願いしたら主治医も分かってくださって、その通りできるようになったのです。
 一つは「ビタミンB-17 療法」(ウメ、モモ、ビワなどのバラ科植物の未成熟な果実や種などに含まれるアミグダリンを投与する療法)です。その療法は、入院中の約1ヶ月間、退院後も5ヶ月間続けました。もう一つは肉食をさけ、玄米と野菜を中心にした食事療法です。材料はできるだけ農薬を使っていない自然農法で栽培した食材を使用しました。
 河内先生の治療法に加え、岡田式健康法浄化療法も徹底しました。家では私が毎日浄化療法を施術していましたが、地域のMOA健康生活ネットワークの方もローテーションを組んで施術してくださいました。
 しかし夫は、野菜中心の食事だけでは我慢ができず、たまには外でとる時もありました。2週間に1回病院で検査をしますが、そういう時はすぐ数値に表れました。
 夫は美食家で、肉食中心で育った人ですので、私は「食生活を改善して、体質を変えると、病気も良くなるのだから」と言い聞かせましたが、ガンであるという本当のことを伝えていないこともあって、私にとっては耐え難い苦しみがありました。
 食事は、とろ火で長時間炊いたものを中心に作り、良くなってほしいとの願いを込めて作りました。しかし、食に関する研修会に参加したり、本を読んだりしていると、「努力工夫して作っても、一緒に食べないと意味がない」と教えていただき、食事はなるべく一緒に食べるように努めました。続けていくうちにあれほど好きだったお肉やお酒を欲しがらなくなってきました。

〔夫への告知〕

 手術から3年経った平成元年4月、ガンが肺へ転移したことが分かり、かかりつけの医師を通して、夫に知らせることにしました。そばで見ていましたが、夫はいたって冷静に受け止めていて、「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ。やっておくべきことがあったのに」と言っていました。
 体調が悪化し仕事に行けなくなったのは、それから2年後の平成3年の3月からでした。夫は家で治療したいと希望し、私も家で看病してあげたいと思いましたので、主治医にお願いしました。訪問看護は、医師が10日に1回、看護師が1週間に1回の割合で来てくださいました。抗ガン剤と痛み止めは使用しないで済んでいました。往診時に、医師は、「痛いなら痛いと言ってくださいよ」といつもおっしゃっていましたが、夫は、「痛くない」と返事をしていました。往診が済んで、私が玄関までお送りする時に、いつも医師は不思議がって「ご主人は本当に痛くないのですか?」と聞くほどでした。
 その年の6月の父の日に、夫が口内炎を起こしたので、歯科医をしている甥を呼びました。口内の消毒の後、夫はトイレに行こうとしました。しかし、「立とうとするけど立てんよ」と言うのです。それ以来、床に伏すようになりました。

〔最後に深く呼吸して永遠の眠りへ〕

 床に伏すようになってからは、東京にいる長女を呼び、一緒に看病してもらいました。また健康生活ネットワークのみなさんも代わる代わる来て、浄化療法を施術してくださいました。
 平成3年3月以降は、MOAのAスタッフが1日置きに来てくださいました。臨終を迎える前の日、7月10日も来てくださいました。そして浄化療法を長時間施術した後、「岡田茂吉先生の本を読んでいいですか?」と仰ったので、お願いしました。夫は朦朧としている中でしたが、声をかけると、低い声でしたが「はい」とうなずきました。
 読まれた内容は、人間は『生き変わり死に変わり、理想目的に向って前進せしめつつある』という存在であると説かれた内容でした。
 読み終わると、夫はしっかりした声で、「ありがとう」と言いました。それが“送りの言葉になった”そう思いました。論文を聞いている間、穏やかな時間に包まれ、私自身も心の整理がつきました。
 翌朝の10時前でした。夫が1回深く息を吐いたことに気づいた姪が、台所にいた私に向かって「おばさん、おばさん!」と呼びました。姪は、父親の臨終に立ち会ったことがあり、最後の瞬間、息を深く吐く姿を見るという体験をしていたのです。そこで、夫の脈拍を計ってみると、もう脈は感じられませんでした。
 6ヶ月と宣告された命が5年余にも延びた上に、本当に安らかな臨終でした。お会いしてくださったみなさんが、「こんな穏やかな顔は見たことがない」というくらい、安らかな顔をしていました。
 思い出すのは、看病をする中で、事あるごとに口にしていた夫の「ありがとう」という感謝の言葉です。その言葉を聞くたびに、心が癒やされました。そして夫を失っても、悲しみに暮れることなく生きていく力にもなっていきました。

〔だから、80歳になっても人の幸せのために頑張れる〕

 夫への看病を通して、私は浄化療法を中心とした岡田式健康法があることの素晴らしさを感じています。これがあることで、厳しい病気を抱えても、家庭の中でケアができたのですから、ありがたいです。河内先生が勧められた治療法も、半年ほど取り入れましたが、その後の家族での看護にも参考になり、大切なことだったと感謝しています。
 その後、私は同じように苦しむ人たちのために健康生活ネットワークのみなさんと一緒に、浄化療法を中心にした岡田式健康法に取り組んでいます。
 平成17年、健康生活ネットワークのIさんのご主人が、肺ガンで余命半年と告げられました。自宅療養をしながら、その時々の状況で入院もされていましたが、平成19年に帰幽されました。その間、奥様、健康生活ネットワークの方々の浄化療法の施術もあって、周囲の方々から「本当に病気なの?」と言われるぐらい元気に振る舞われておられました。終末も苦しむのではないかと心配しておられたようですが、最期の日も苦しむことなく本当に穏やかな顔をされていました。余命6ヶ月と告げられましたが、3年余も生き長らえることができて、Iさんは「浄化療法のお蔭」と語っておられました。また、「きっと、霊界に帰っても幸せになれる。そう思うと心が安らぎます」と、お通夜の日、そばにいた私に話してくれました。
 毎週月曜日は、Iさんも含め、健康生活ネットワークのメンバーと一緒に、首里にある沖縄療院で、浄化療法を施術するボランティアをしています。みなさん一生懸命で、志を共有し、お互いに感謝し合って、一緒に頑張ることができありがたく思っています。
 私は80歳になっても、こうして元気で、人様の幸せのためにボランティアができることがありがたく、生きがいになっています。これからも、可能な限り頑張っていきたいと思っています。

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