食道ガン(3期)が完治するまで

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長野県  I・Yさん(78歳、女性)

〔はじめに〕

 平成17年10月24日、私は東京のがんセンターで3期の状態にあった食道ガンの手術を受けました。手術後は抗ガン剤が処方されなかったので、岡田式健康法を受けることを日々の生活としてきました。そして、平成22年11月10日をもって、担当医から「ガンの再発はありません。完治しています」との診断がありました。
 手術前は東京都の長男の自宅から、手術後は愛知県の長女の自宅から東京高輪、名古屋の療院に日々通い、長野県の自宅に戻ってからは地域のMOA健康生活ネットワークの方々が浄化療法をするためにわが家に足を運んでくださいました。本当に多くの方々が親身になって関わってくださり、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。すべて方に「ありがとうございます」と御礼を申しあげたいです。

〔のどの違和感からはじまる〕

 ガンが発覚する2年ほど前から、声が徐々にかれるようになり、時折、食事がのどでつかえるような違和感がありました。
 平成17年に入ると、つかえとともに痛み(嚥下痛)を感じることがありました。また、寒気と寝汗がひどくなりました。40年前に離婚し、子どもたちが結婚してからはひとり暮らしだった私は、長女の言葉に甘えて5月から約3ヶ月間、愛知県にいる長女宅でお世話になることにしました。病院に行きましたが、診断は肺炎でした。喉のことも話しましたが、「加齢で体中の臓器が鈍くなっていて、肺炎のために肺の働きも悪くなっているからでは」とのことで、“肺炎でこんなことにもなるんだな”と思っていました。
 しかし、7月末に長野の自宅に戻ってきても寒気はなくならず、つかえと痛みは10日に1度ぐらいの頻度で感じるようになりました。
 そして8月21日、突然胸の強い痛みと吐き気に襲われて、白っぽくてぬめりのある液状のものを湯飲み茶碗2杯ほど出しました。私は“ガンではないか”という不安がよぎり、翌日、評判の良い市内の胃腸外科を受診しました。
 レントゲン、血液検査、バリウム検査を受けた後、先生から「息子さんは東京でしたよね。連絡を取りたいので電話番号を教えてほしい」と言われました。私は「先生、ガンですよね」と聞きました。先生はその問いには答えず「長野県にも大きな病院がいくつかありますが、この状況だと東京の方がいいので、息子さんの所へ行きなさい。東京の病院には連絡をしておきましたから」と言われ、レントゲン写真と東京のがんセンターの紹介状を受け取りました。

〔治療法がなかなか決められない〕

 8月26日、長男夫婦に付き添われてがんセンターの検査を受け、結果を9月15日に聞きました。レントゲンにはゴルフボールぐらいの大きさの影があり、食道ガン3期で、食道内に2ヵ所の転移があるとの診断でした。担当医のT先生(外科医)は、手術、化学療法(抗ガン剤)、放射線治療の選択肢があると説明してくださり、「手術でしたら9月25日にしましょう」と言われました。
 食道の手術は、手術の中でも2番目に大きいともお聞きしました。「大きな手術」との言葉に私は動揺し、なかなか心が決まりませんでした。そのため、一端手術を見合わせて、放射線治療を考えることにしました。
 以来、長男は知人やインターネットで、長女は仕事上で関わりのある医師などに相談して良い病院を調べてくれ、千葉県のがんセンターを受診することにしました。
 不思議なことに、受診する前夜、ガン治療で著名な東京療院のN先生の夢を見ました。私は“N先生の見解をどうしても聞きたい”と思い、長女に電話して頼みこみました。
 9月21日、私と長男でがんセンターの受診の手続きをしている間、長女がレントゲンを持って神奈川県におられたN先生と会って相談してくれました。しばらくすると連絡があり、「ガンは肺の裏にあるので放射線は難しいから手術が良いと勧められた。しかも、わざわざT先生宛に手紙を書いてくれるそうなので、放射線治療の予約は入れないように」と口早に伝えられました。N先生の見解を聞いて、ようやく私の心が決まりました。
 翌日、がんセンターのT先生を訪ね、N先生が書いてくださった書簡をお渡しし、お詫びと改めて手術のお願いしました。長野から紹介状を持って受診しておきながら、一度お断りをして、また戻ってくるというご迷惑をおかけしたのですが、T先生は手紙を読まれた後、ニコッとされて「手術は大きいよ」と言ってくださいました。私は「もう心がきちんと決まりましたので、先生の手に全てゆだねます」とお願いし、10月25日に手術することが決まりました。

〔食道ガンの原因と医師の励まし〕

 手術日までの間、私はほぼ毎日東京療院に行き、岡田式健康法を受けました。通院したり、滞在型プログラムに参加したりして、浄化療法美術文化法食事法を体験しましたが、特に浄化療法を徹底して受けるようにしました。
 東京療院内にクリニックがあるので、手術が決まった翌日に受診したのですが、診察してくださったK先生が、今回の食道ガンの原因は強烈なストレスも起因していると話し、「あなたは言いたいことを喋らず、じっと我慢して溜めているね。思っていることを喋りなさい」と言ってくださいました。その言葉に私はせきを切ったように、これまでずっと溜めていた思いを話しました。この十数年は相談相手がいなくなったので、人付き合いの中で悩むことが多くなり、娘たちにまで不平不満や、人の批判などの愚痴や悪口を言うようになってしまった等々、苦しんでいたことの50%ぐらいを言葉に出すことができました。K先生はじっと聞いてくださりました。話し終えると少し気持ちが楽になり、心にも余裕ができたように思いました。
 10月3日~7日まで、4泊5日の滞在型のプログラムに参加したときのことです。療院に来られていたN先生とお会いすることができました。T先生宛に手紙を書いてくださったことに対する御礼と感謝をお伝えさせていただきました。その会話の中で、“たとえ手術中に亡くなっても、いたしかたない”という思いを見抜かれてしまったのでしょうか、N先生は「人の寿命というのは自分で決めることではありませんよ。今はガンは死ぬ病気ではないです。手術後も1日3時間半、浄化療法を徹底して受ければ再発はないと思います」と励ましてくださいました。

〔順調だった手術と術後の経過〕

 10月25日、運命の手術の日となりました。食道を全部取り、胃を食道口まで延ばしてつなげ、さらに、肺ガンと乳ガンにならないように両側のリンパ腺も切除するという6時間余にわたる手術でしたが、予定よりも半分近い手術時間で終わり、輸血をする必要もないほど順調であったそうです。ただ手術後、集中治療室に6日間いたときは「スパゲティ症候群」(※体にチューブやモニターコードがたくさんつけられている状態)となって精神状態が安定せず、開胸した右胸の傷口やのどが焼けるように熱くて痛くて、水を飲みたくても傷口が落ち着くまでは飲ませてもらえず、つらさゆえに“このまま死んでしまいたい”と何度も考えました。
 しかし手術以後、東京療院のスタッフの方や、都内の健康生活ネットワークの方々が、毎日交替で来てくださり、N先生のアドバイス通り、休憩をはさみながら1日3時間半の浄化療法を受けることができました。浄化療法を受けると、体の激痛が和らいで眠ることができました。あのつらさを乗り越えられたのは、まったくそのお陰でした。
 感謝といえば、入院中は、長女がちょうど仕事の関係で東京に滞在できたので、孫の大学の下宿先から毎日のように病院に来てくれて、身の回りの世話をしてくれました。また、長男もお嫁さんや娘を連れてよく見舞いに来てくれました。長男の結婚後、お互い気を使うだろうと東京に身を寄せることを控えていましたが、やはり家族は泣いたり、笑ったり、喜んだり、ときには言い合いをすることが本当だなと感じました。今まで遠慮ばかりしてきたことを反省し、“これからは少しずつ甘えていこう”と思いました。
 11月2日にバリウム検査をしました。食道ガンの手術では、縫いしろが化膿する場合があるそうですが、私の場合は一切なく、順調に回復していることが分かりました。「手術は成功です」「おめでとう」と3人の医師が手をたたいて喜んでくださいました。長女とも泣いて喜び合いました。
 3日に1度ずつ行った採血とレントゲンの検査も大変順調とのことで、11月10日に退院することができました。

〔療院と健康生活ネットワークの心遣い〕

 少しずつ歩けるようになってきた12月、冬場の気候を考慮して、長野県には戻らず、愛知県の長女宅にお世話になることにしました。
  今度はこの年にオープンした名古屋療院に、翌年の平成18年5月半ばまで約半年間、休みの日以外はほぼ毎日通いました。東京療院同様、こちらのスタッフや療法士のみなさんも、いつ命が絶えるか分からない私に対して、心こもる浄化療法をしてくださいました。というのも、事前に医師から言われていた通り、段階的に体重が減少し、一時は58kgあった体重が38kgまでになりました。こんな私を見れば、投げ出したくなってもおかしくありません。ところがみなさんは心より受け入れてくださり、その時々の気配りと心配りが嬉しくて、体がつらくても毎日療院に通うことができました。
 また、長野からは、私と一緒に活動していた健康生活ネットワークのみなさんが、阿南瑞泉郷で作られた自然農法の野菜、自家製の味噌を届けてくださりました。また、「治療費も大変でしょう」と、毎月お見舞金を送金してくださる方が3人おられ、その温かさに心打たれるばかりでした。療院に通って診察を受けたり、浄化療法を受けると、交通費も含めると1日で5000円ほど必要です。しかし、私が定年退職したときにあげた退職金の一部を長女が使わずに貯金していて「お母さんに何かあったときのために取っておいたから使って」と出してくれたり、長野の健康生活ネットワークの方々のご好意のお蔭で、通い続けることができました。

〔ガンの再発防止のために〕

 T先生からは、ガンの再発を防止するためには、①楽しいことを考え、笑う、②食事を何回にも分けて、良く噛んで食べる、③良く眠る、④明るい生活をする、の4点を心がけるように言われていました。これが免疫力を高め、防止につながるとのことでした。また、「食事をしなかったり、歩行努力をしないと、どんどん体力が落ちて寝たきりになりますよ」とも言われていました。
 長男や長女もT先生から同じことを言われていたのでしょう。退院してからは、毎日、「お母さん、牛乳を買ってきて」などと、何かと用事をお願いしてきては、外出するように仕向けていました。長女の家にお世話になるようになってからは、歩けるようになってきたので、一人で名古屋療院に行くようにも努力しました。最初はとてもつらく感じました。体重が徐々に落ちていくので、なおさらでした。
 また、美術展にもよく連れていってもらいました。デパートや美術館に行き、ジュエリー展や紫式部展、近代日本画展などを鑑賞しました。特に近代日本画展では、岡倉天心に師事した横山大観、菱田春草、下村観山などの作品が展示されていましたが、自然を題材にしている空間表現、遠近法、繊細な筆遣いといった描き方が印象的でした。ことに春草は若年で他界されたせいか、優しさと弱さが見え隠れしました。“きっと体力が微弱な中で描かれたのだろう。同じ体力がない私にはできない”と尊敬しました。美術展に行くと、会場を出るころには心も体も軽くなり“美しく、明るい、楽しいものに目を向けて心身の栄養剤にしていこう”と思いました。

〔喜びと感謝〕

 平成18年5月末、6ヶ月検診のために再び東京のがんセンターに行きましたが、“異状なし”の結果で安堵しました。
 そして約9ヶ月半ぶりに長野に帰りました。長野に帰るにあたってはひとり暮らしに戻るということもあって、様々な心配があったのですが、私が所属している地域の健康生活ネットワークを超えて、多くの方々が毎日ローテーションを組んで私の家に来てくださったので、たくさんの浄化療法を受けることができました。
 6月28日、最初に診ていただいた胃腸外科の先生に再診してもらいました。検査の結果、全て異状なしとのことでした。薬を一切使わないで順調な経過だったので、「がんセンターにたくさんの患者を紹介してきたけど、こんな患者は初めてみた」と言われました。
 その後も定期検診に合わせて東京に行き、検診に合わせて東京療院の滞在型プログラムに参加して岡田式健康法を受けるという生活を繰り返しましたが、検査では特に異常はなく、体調も徐々に回復し、平成22年11月をもって完治と言われました。
 今日まで多くの方々に支えられて希望に満ちた生活を送らせてもらっています。気候の変化に体調がつらくなることがありますが、我慢できない状況になることは一日もありませんでした。また、術後3年ほどは食事をするとのどの痛みを感じ、下痢をすることがありましたが、自然農法で作られた食材を使った食事をすると平気でした。その様子を聞いたネットワークの方々は、自然食の食事や無農薬で作られた野菜などを届けてくださるようになり、ただただ頭が下がるばかりでした。また、手術前後は毎晩しぼる程の寝汗をかいたのですが、汗をかいた後は全身が大変楽になりました。これも徹底した浄化療法の施術以外の何物でもないと思っています。
 施術に来てくださるみなさんは、私が良くなっていく経過を見てわがことのように喜んでくださいます。中には、「ガンになっても怖くないね」と言われる方もおられ、私自身の励みにもなりました。
 病気になってこんなに心安らかで幸せで良いのかと問うときがあります。これからは、いただいた命を大事に、感謝と喜びで明るく楽しんで歩んでいこうと思います。

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