神奈川県 S・Sさん(54歳、女性)
〔余命を告げられた夫の肺ガン〕
平成20年4月、長引く咳のために受診した大学病院での精密検査の結果、夫の咳の正体が明らかになりました。肺ガンで腹部リンパ節に転移、手術も放射線も治療の選択肢にはなく、抗ガン剤で叩くしかないという最悪のものでした。何もしなければ余命3~4ヶ月、抗ガン剤が奏功(そうこう)すれば12~14ヶ月。主治医から別室で一人説明を受けた私は、あまりにも受け入れ難い現実に、「夫はこんな目に遭わなくてはならない人ではないんです。先生、何としても治してください」と、涙ながらに訴えておりました。
抗ガン剤治療のための入院日までの間、代替医療に関する様々な情報を集め、東京療院東京療院の中にあるクリニックでN医師の診察を受診し、ガン治療の先駆者であられる先生のアドバイスと温かい励ましをいただくことができました。夫のガンには抗ガン剤は外せないこと、なるべくたくさんの岡田式浄化療法をいただくこと、自然農法の食材による食事を取ること…当面の方向性が定まりました。
MOA会員の夫は、私もロケットをかけて浄化療法を施術して欲しいとのことでした。2人でMOA健康生活館を訪れ、MOAに入会し浄化療法の講習を受けました。
〔療院のスタッフやネットワークの支えの中で闘病する〕
抗ガン剤の副作用のつらさ、身体へのダメージは聞いてはいたものの、夫には心身ともにとても大きな負担となりました。どんなに副作用がつらくてもこれを拒否したら瞬く間にガンは全身に広がってしまうということでしたので、何が何でも立ち向かわなくてはなりません。
ベッドの上で不安と恐怖に駆られながら副作用に耐える夫…“どうか、お父さんを助けて。ガンを消してください”と、心の中で何度も叫びながら必死で浄化療法を施術しました。東京療院に療法士ボランティアにこられていたNさんや、地域のMOA健康生活ネットワークの中心的な存在であるHさんが、連日病室を訪れてくださり、「こんにちはー。調子はどうですかー」と病室の扉が開く時を夫は心待ちにしておりました。
1クール目の治療が終わって一時退院し、岡田式健康法の食事法と浄化療法によって体力の回復を図り、2クール目の抗ガン剤治療に備えます。その間、毎日浄化療法は欠かさず、Hさんはじめネットワークのみなさん、Nさんもわが家を訪れて浄化療法をしてくださいました。また、夫は東京療院に入院し、生命力溢れる自然農法の食材を使用した食事と浄化療法を受けることができました。
消えることのない行く末への不安、病気に対する恐怖、無念の思い…心の中の葛藤を東京療院のSナースはじめ療院スタッフのみなさんが受け止めてくださいました。とりわけSナースには、豊富な臨床経験に裏打ちされた説得力ある言葉で勇気づけられ、夫婦ともに落ち込んでしまう心を引き上げていただきました。同じ東北人のよしみから、夫は「肝っ玉ねえさん」のようなナースに全幅の信頼を寄せておりました。
〔厳しい現実の中、夫婦で療法士資格を目指す〕
月日がたつにつれ、私自身も体に変調をきたすようになりました。体重が減り顔色も冴えない私の様子を見て、共倒れにならないようにと健康生活ネットワークの方たちは私にも浄化療法を施術してくださいました。心身ともに疲れ切っている私にネットワークの方たちのかざす掌を通して、目には見えないが何か温かいものを届けてもらっているという感覚を覚えました。精神的にも肉体的にもぎりぎり追い詰められる夫、そんな夫を目の当たりにし、どうしようもなくて潰れそうになる私。けれどもネットワークのみなさんが、絶えず私たちの身になって考え、支えてくださるその姿に、“私は一人ではない”と思うことができ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
平成20年の暮れも押し詰まったころ、夫の抗ガン剤治療は回を増すごとに効果が認められなくなっていました。夫は、少しずつ現実を受け止めながらも、でも「元気になったら人のために役立つ生き方がしたい」と希望も捨て切れないでおりました。それで、2人で療院や健康増進セミナーで浄化療法のボランティアをするために必要な療法士資格を取ることにしました。Hさん宅に資格講座講師が来てくださって、5回積上げの勉強会が開かれました。夫は副作用による顔面の痺れや腰痛に耐えながら、よく頑張ってくれました。“奇蹟が起って2人で療法士として活動できたらどんなにいいだろう”と、幾度思ったか知れません。勉強会の後は、Hさん、近所のOさんお手製のランチタイムです。療法士資格取得に向けて、ここでもまたネットワークの方たちのバックアップに、人の情けの温かさが心に沁みた一時でした。
〔遠く、九州の地でも健康生活ネットワークのみなさんに支えられる〕
年が明けて、平成21年春、夫の腫瘍マーカーは第4クールを終了した時点で、ガンが発覚したころをはるかに越える高い数値を示していました。けれども、もうこれ以上自分の身体に抗ガン剤投与は無理と判断し、大学病院での抗ガン剤治療を断念することにしました。
これまで抗ガン剤と合わせて、ダメージの少ない免疫療法を試みましたが、どれもこれといった成果は得られませんでした。それで最後の望みをかけて、九州の病院で温熱療法を受けることにしました。誰一人知り合いもない九州での単身入院治療…心細い思いはありましたが、Sナースにその旨を報告すると、九州でも夫が浄化療法を受けることができるようにと入院先のK市の健康生活ネットワークに、連絡手配してくださいました。いつ如何なる時も夫の苦悩の緩和と心の安らぎを第一に考えてくださるナースの配慮には感謝してもし尽くせない思いでした。
毎日、ネットワークの方たちが交代で病室を訪れてくださり、午前午後と浄化療法を受けることができ、しかも差入れつき、時にはお花見のドライブにまで連れ出してくださったそうです。見ず知らずの他人のために、健康生活ネットワークの一員であるというその一点故に、こんなにまで尽くしていただけるなんて…ここでも苦しみの中にも一筋の光明を与えていただきました。
〔夫の霊界への旅立ちと夫の遺志を継いで〕
K市のネットワークの温かな支援に包まれての最後の治療でしたが、ガンの進行を抑えることはできず、自宅に戻って強まる痛みに対する対処と、日々の浄化療法で過ごしておりました。食事の量も減り、水を飲んでもすぐ吐いてしまうという状態でした。痛みと体力の低下のため、東京療院にも行かれなくなって久しいある日、Sナースがわが家に駆けつけて、浄化療法をしてくださいました。夫は、もう自分がそう長くないこと。そしてもう覚悟はできていること。いつどこに在っても岡田式健康法に支えられて過ごせたことへの感謝を伝えました。そして昼食に3人で「そーめん」を食べました。その時の「そーめん」が夫のこの世での最後の食事となりました。
それから2週間後の平成21年8月中旬、「もう怖くないから、大丈夫だから」という言葉を残して、夫は霊界へと旅立って行きました。
病気の発覚から1年4ヶ月、絶望の淵にありながら、毎晩床に就く前には「今日もありがとう」の言葉を欠かさなかった夫。私の体調が悪い時は、自分のこと以上に心配してくれた夫。今でもそのような夫の姿が私の記憶の中にきらきらと残っています。このような夫であってくれたのも、私が何とか看護を全うできたのも、重荷を分け背負ってくださったネットワークのみなさんの一貫した利他の精神のおかげと思わせていただくのです。
「MOAのみなさんには本当に世話になった。俺が死んだらMOAの進める事業に寄付してくれな。もう治療費を心配しなくていいから」という夫の遺志どおり、感謝の寄付をお届けしました。病気が治ったら人の役に立つ生き方をもう一回やり直したいと願っていた夫。夫がお世話になった東京療院がより大勢の方のために役立っていくようにという私の切なる願いでもありました。
〔私も誰かの支えとなる存在でありたい〕
夫の病を通してMOAを知り、多くのことに気づかされました。人生には超えることが難しい苦境に追いやられることがあるけれど、人が何らかの助けを必要としている時、その人にとって最も力となるものは何だろうと考えた時、ただただその人の思いになって寄り添ってくれようとする心なのだと感じました。その人のことを想って、こんなにも直接的に実践し、癒しとなり、魂までも引き上げようとする機関があったことに驚き、同時に感謝せずにはいられませんでした。健康生活ネットワークの存在は、わが家にとってまさに地獄で出会った一筋の光明でした。
夫を見送って一年、世の中に目を向けると、老若男女を問わず心身ともに病んだ人、癒しを必要とする人が引きも切らず、新たな不幸の種がたくさん撒かれているような日常があります。だからこそ、MOAの温もりある活動は、世の中に一番必要とされている内容ではないか、さらにはこのような人から人への利他愛の実践が、理想的な社会を実現する道なのかも知れないという思いに至りました。
私も誰かの支えとなる存在でありたいと、健康生活ネットワークのみなさんの活動を通して感じています。そして精一杯の人生を全うして、いつの日か夫の待つ霊界で再会することを心から願っています。