末期ガンの父が浄化療法を通して安らかな永遠の眠りへ

タグ:

沖縄県  O・Mさん(50歳、女性)

〔沖縄伝統のお菓子作りを支えた父〕

 父が平成20年4月7日、86歳の生涯を閉じました。父は沖縄伝統のお菓子を作ってきた老舗の店主でした。今から200年前、琉球王朝時代に王府の包丁役(料理役)を拝命されていた5代前の父祖が開祖で、父は6代目に当たります。沖縄伝統のお菓子「チンスコウ」は、現在では多くの店が出すようになっていますが、その中で父は、沖縄で唯一自然農法で栽培された小麦粉を使うなど、体に優しい自然食品のお菓子作りを進めてきました。
 亡くなる1ヶ月前の3月7日、救急車で病院に運ばれ、末期の肝臓ガンと診断されました。しかし、医学的には、厳しい状況であったにもかかわらず、激しい痛みもなく、安らかに逝きました。最期まで元気で、父らしい旅立ちだったと思います。

〔健康生活への配慮〕

 父は60歳ごろまで、今で言うメタボリックで、血糖値も高く肥満でした。70歳ごろから急激に痩せてきたので、糖尿病の悪化かと心配しましたが、治療を受けるほどではありませんでした。
 亡くなる2年ほど前に、お腹が張り黄疸症状が出たので、N病院で検査をしました。すると、GOT、GPTが通常40のところ1200もあり、アルコール性肝障害と肝硬変の診断を受けました。それに、肝臓ガンの疑いもあり、月に1回診察して経過を観察することになりました。このことがあって、父は睡眠薬代わりに毎日のように飲んでいた好きなお酒をやめることができました。
 そのころから、私が通っていた沖縄療院に連れて行くようにしました。この療院では、岡田式健康法の浄化療法食事法美術文化法を取り入れた統合医療を進めていて、父は週に1~2回行って、浄化療法を受けるようになりました。行くたびに、「元気になった」と言って、お菓子作りも頑張っていました。
 生業の菓子店が忙しくなってきた平成19年の夏ごろからは、私が住んでいる家から車で40分ほどの首里の父の元へ通い、菓子作りを手伝いながら、毎日1時間、浄化療法を施術していました。
 チンスコウ作りを父と一緒にやっている従姉は「元気がなくて顔色が悪い時、療院に行ってくると、顔色がぜんぜん違う。良くなって仕事をしていた。不思議だね」と、話していました。
 また、入院することになった1週間前、療院に行き診察を受けた時も「自分は、チンスコウ作りを90歳までやるぞ」と、元気そのものでした。

〔救急車で入院〕

 亡くなるちょうど1ヶ月前の3月7日、父は銀行と散髪屋さんに行きました。夜8時ごろ、夕食をとっている最中に腹痛を訴えたので、1時間ほど浄化療法を施術しましたら、吐き気を訴えてもどしました。この時、軽い痙攣症状があったので、夜の遅い時間でしたが、沖縄療院の医師に電話を入れ、状況を説明すると「救急車を呼んだ方がいい」と指示されましたので、救急車を呼び、N病院へと運ばれました。
 N病院では、迅速な対応をしてくださり、ICUに入れていただきましたが、翌日の父は「どこも痛くない」、「自分はまだ確定申告をしていないので帰してください」と医師に言うほどで、本当に帰る気持ちになっていました。
 しかし、主治医からは「肝臓全体がガンに冒されている。肝臓が破裂し、大量出血していて止血術と輸血が必要な状態。今日がヤマ場で、普通こういう状態だと、持っても数日の命です」と伺いました。出血を止めることと輸血については、すぐにお願いしました。
 歳も歳ですし、つらい思いをさせてはいけないと思い、兄弟、姉妹で話し合い、本人への告知はしませんでした。心配をかけてはいけないと、母にも伝えませんでした。

〔代替医療として浄化療法を積極的に受ける〕

 ガンの末期は、苦しい思いをすると聞いていましたので、入院期間中、私も家族も浄化療法の施術を徹底しました。沖縄療院の医師、看護師やスタッフの方々も毎日、ボランティアで代わる代わる来て施術してくださいました。
 また、寝てばかりいると血行が悪くなると聞いていましたので、足がだるくなったり、きつくなったりした時はマッサージをしてあげました。施術したりマッサージをすると、いつの間にかスヤスヤと眠ってしまいます。そういうことが何回もありました。
 3月中旬、本土でお勤めをしている方が帰省された際に、病室を訪ねてくださいました。父はそれまで疲れた顔をしていましたが、久しぶりにその方とお会いすると、ニコニコ笑って、手を握ったまま離しません。その方は、左手で握手をしたまま、右手で2時間近くも浄化療法を施術しくださいました。“手を握ってくださったことで、父もきっと安心したんだ”と思いました。
 入院中は春の選抜高校野球が開催されていたので、父も楽しみに見ていました。3月31日11時ごろ、マッサージをしていると、父は時間を気にしていて、「どうしたの?」と聞くと、「高校野球!」との返事です。その日の沖縄尚学と明徳義塾の試合を楽しみにしていたのです。試合が始まって直後の1回裏、沖縄尚学に2点入った時には「入った!」とはしゃいでいました。
 兄弟、姉妹やお嫁さんたちは、父がこれだけの病気をしていても苦しまないのですから「すごいと思った」と、それぞれが言っていました。そして、86歳の高齢ということも考え、苦しみを与えず自然の形で送ってあげたいと、兄弟、姉妹と相談し、主治医とも話し合って、無理な延命処置はしないことにしました。N病院の医師や看護師のみなさんも、心からの対応をしてくださり感謝しております。

〔人間は死んだら終わりではない〕

 数日後、「新聞を持ってきなさい」と言うので、「何で?」と聞くと、「告別式のことを新聞に載せる。喪主は〇〇・・・、これだけ載せればいいかな」と言うのです。それに、急に大きな声で「M子バイバイ」と言ったり、「親父が迎えに来た」とか、「花がいっぱい見える」とか、そういうことを言っていたので不思議に思いました。
 私の家族は、人は生き変わり死に変わり永遠の命があるとの人間観を大切にしています。沖縄もまた、先祖を大切にする先祖崇拝の盛んな島です。沖縄では1年に1回、シーミー(お彼岸)が行われます。わが家は、首里にお墓があり、その日にムンチュー(門中=父系血縁集団)が集まり、沖縄の伝統食をお供えし先祖供養をします。時によっては、踊ったり、三味線を弾いたり、先祖と一緒に楽しみます。いつも、隣に先祖がいるという考え方です。このように、人間は死んだら終わりではないことを信じていますから、それで、このような父の言葉が出てきたのだと思います。沖縄の伝統食も、先祖を大切にする文化と密接な関係があります。父の様子からも、死に対する準備こそあれ、恐怖を感じているようには見えませんでした。

〔安らかに永遠の眠りへ〕

 3月に救急車で運ばれた時は数日の命と言われていたのですが、ちょうど1ヶ月間も命が永らえ、痛みもほとんどなかったと言っていいほどの終末を迎えることができ、本当に“良かった”と思いました。永遠の眠りについたのは、4月7日午前0時45分でした。
 その日は、私が朝から付き添っていました。食がだんだん細くなってきていて、お昼はお粥を二口三口食べました。午後3時ごろ、入院して以来初めて「お腹が痛いから、先生に痛み止めを打つように頼んで」と言いました。お願いして打ってもらったら、間もなく痛みがなくなって、テレビを見ながら過ごしていました。夕食にお粥を一口食べ、6時ぐらいになると、また痛いと言うので、痛み止めを打ったら痛みは治まりました。
 その後、弟と交代して「また明日来るからね」と声をかけると、元気な声で「OK」と、返事が返ってきました。しかし、家に着いた9時過ぎに、弟から電話がかかってきて、「お父さんの様子が思わしくないので来た方がいい」とのことでしたので、すぐに病院に戻りました。
 4月7日に日が改まった0時45分、その時がやってきました。“疲れて眠ったのかな”と思ったほどでした。それだけ安らかに、眠るがごとく逝きました。
 告別式には、父の仕事のこともあり大勢の方々が参列してくださいました。
 告別式の準備をしていた兄が、一つの弔電に気がつき、その弔電を取りあげたいと言いました。その弔電の内容は、沖縄の伝統のお菓子作りに対する父の功績と、さらに、父の人としてのあり方を讃えた内容でした。弔電は、なかなかそこまで丁寧にはしたためません。子どもとして、本当にうれしく思い、送ってくださった方の許可を得、告別式で最初に紹介させていただきました。父も、きっと喜んでくれたと思います。
 家族が心から感謝していることは、沖縄療院の方々が中心になって浄化療法を施術してくださったことです。おかげさまで心身に痛みのない緩和ケアができました。みなさんの浄化療法の施術とともに、父に注いでくださった真心に心から感謝申し上げます。

あわせて読みたいコーナー

PAGETOP