肺ガンと向き合う生活から生きがいのある人生へ

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チリ  M・Aさん(67歳、女性)

〔肺ガンの発見〕

 私は、67歳のごく普通の主婦です。3人の子どももすでに独立して家庭を持ち、子育ての心配もなくなりました。年金生活をしている夫と二人で、美術を楽しんだり、たまには旅行に出かけたりと普通の生活を過ごしていました。
 2006年11月、何気なく健康診断を受けてみようと思い、家族の掛かりつけのR医師の診断を受けました。医師から念のために胸部のレントゲン検査を受けるように勧められ、早速、専門の病院でレントゲンを撮ることにしました。
 私はこれといった自覚症状もなく日々を過ごしていたので、何の心配もしていませんでした。しかし、レントゲン検査の結果は予想外のものでした。なんと、左の肺に約9㎜の腫瘍が見つかったのです。私は、信じることができず、これは何かの間違いだろうと思い2回目のレントゲン検査を試みました。しかし、結果は同じでした。
 R医師の勧めで、今度はガン専門クリニックで最新の機器による体全体の検査を受けました。診断結果は同じでした。幸い、ほかへの転移はなかったのですが、すぐに手術をするように勧められ、翌年の2007年1月15日に手術を受けることにし、医師にすべてをゆだねることにしました。
 これまで普通の生活をしていた私たち夫婦は、突然、不安と悲しみの生活へと変わってしまいました。夫は、私以上にとても驚き、非常に心配してくれました。二人で涙を流したことも幾度もありました。これまで、普通に過ごしていた生活から突然、暗いトンネルの中に入ってしまったのです。

〔放射線治療、抗ガン剤治療に苦しむ〕

 手術は6時間という長丁場でしたが、左肺上部にあった9㎜のガンとその周辺の肺を約3分の1切除しました。リハビリをしながら体力の回復を図り、3月から予定している放射線治療に備えました。
 医師から、週3回計26回の放射線治療を行う旨の指示が出ました。当初は、順調に治療を受けていましたが、回を重ねるごとに、食欲も無くなり、元気もなくなっていきました。治療が終わりに近づいた23回目の時には、のどの内部がただれ、食事も全く受け付けない状況になり、体重が減り、気力もなくなってしまいました。医師に「私を殺したいの」と怒りをぶつけたこともありました。それでも治療を続けていましたが、この放射線治療の後には抗ガン剤による化学療法がプログラムされていたこともあって、治療を続ける自信がなく、結局、放射線治療は途中でやめてしまいました。その後、体の回復を待ってから、化学療法の治療が始まりました。
 治療は、2週間ごとに計5回です。やはり副作用に苦しみました。吐き気、食欲減退、めまい、頭髪や眉毛までも抜け落ち、指先まで痛みが出ました。体も弱まり、生きる気力も無くただベッドに横たわる毎日で、「どうしてこんな目に遭わなければならないの」と嘆く日々でした。そんな私を夫は必死に気遣い、病院への送り迎えや、お風呂に入れてくれたり、食事を作ってくれたりと、家事をすべてやってくれました。本当に感謝しています。
 一方の私は何もやる気になれず、早く夜が来ないかなと思う毎日でした。それは、寝ている時が唯一苦しみを忘れることができたからです。しかし、決して生きる希望は捨てませんでした。夜、ぼんやりと星を眺め、この苦しみに光を当ててほしいと願っていました。

〔MOAとの出合い〕

 2007年5月ごろ、私の母からMOAセンターに行くことを勧められました。今まで聞いたことはありませんでしたが、「日本の団体で、センターはとてもきれいな場所で、エネルギー療法もしているから是非行ってみたら?」と勧めてくれました。私は、日本文化に興味を持っていましたし、母が「MOAセンターには、掛かりつけのR医師もいて*1、化学療法の副作用も和らぐし、精神的にも効果があるから岡田式健康法を受けてみては」と説明してくれたので、妹と一緒に行ってみました。
 MOAセンターではただ勧められるままに浄化療法を受けてみました。はじめの印象は、とてもリラックスできましたが、こうした類のエネルギー療法について全くの無知でしたので、“ただ単に手をかざして何の効果があるんだろう”と素直に受け入れられないものがありました。
 でも、浄化療法を受けると気分は良くなるし、MOAセンターの療法士やスタッフのみなさんは親切で気持ちがいいし、施設のどこにもいつでも花があって、音楽が流れているという落ち着いた雰囲気が好きでした。サンチアゴ市は社会的階級が明確に分かれ、貧富の差が大きいことから、家族や知人との付き合いが主になり、他人との和やかな関係を築き難い環境です。そんな社会の中にあって、MOAセンターではそうした冷たさや孤独感、格差を感じない、全然違う世界に思えました。
 その後も週2日、MOAセンターに通い、また、化学療法の副作用がひどい時は、療法士に家へ来ていただいて、浄化療法を受けました。2ヶ月くらい経った2007年7月ごろからか、いつしか私は、MOAセンターに行くことが楽しみになっていました。玄関を入った瞬間から言葉では表現しづらいのですが、心が開く感じを受けました。そして、次第に何か新しい家族ができたように思えてきました。

〔岡田式健康法による癒し〕

 浄化療法のほかに、花やお茶、陶芸、墨絵など、さまざまな美術や日本文化を体験できる美術文化法も体験しました。お花では、MOA美術文化インストラクターが、花をよく観察することや、花の美を感じること、そして自然を感じ取ることの大切さを教えてくれました。日常生活で、常に様々な美に触れているはずなのに気づかなかったことでした。でも今は違います。命の大切さを教わり、生きていることへの感謝が湧いてきました。今では、家の中に花がない時はありません。
 この体験を通して、夫や子どもたち、孫とのコミュニケーションも変わってきていることを感じます。家族のことを労い、気遣うのは当たり前のことですが、心からの愛情が沸いてきます。人にも優しくできるように変わってきたと思います。“自分が変わったなあ”とつくづく思っています。
 また、食事法のセミナーを通して、新鮮なもの、旬なもの、野菜を多く食べ、バランスに気をつけるなど、そして、感謝して食を楽しむ食事のあり方を学びました。昔は、何でもたくさん食べていました。健康な食事なんてあまり意識したことはなく、お腹が空いたら好きなだけ食べる、簡単に言うとそんな感じだったと思います。今では、野菜を多く摂るようにしたり、肉食を少なくしたりと健康的な食生活を心がけるように変わってきました。当然夫も良い意味で巻き添えです。「家中がMOAだらけだな」と言って冷やかしますが、以前は怒りっぽくせかせかしていた夫も、今は何か落ち着きを感じます。

〔心身が元気になる〕

 私は常に背中の痛みを抱えていましたが、岡田式健康法を続けることで痛みがなくなっていきました。また、以前は体力もなく歩くことも困難でしたが、食欲もだんだんと戻ってくると歩けるようにもなりました。そして、精神的にもガンに対する不安が次第になくなってきたのです。
 このころ診察したR医師は、「通常では、こうした大病を経験すると、精神的に元に戻ることは簡単ではないが、あなたを見ていると、病気なんかしたのかなと疑いたくなるぐらいに、健康な人と変わらない。生きがいを見つけて、人生を楽しんでいる姿を見ると、QOLの回復も早い」とコメントしてくれました。個人差はあると思いますが、化学療法や放射線治療が終わって、完全とは言いませんが、短期間で元のように元気になることができました。通常だと、化学療法の後も検査や治療のために続けて病院に通ったり、ほかの薬を服用しなければならないケースが多いと聞きます。しかし、私は、その必要がなく以前よりも元気になりました。

〔療法士としてのボランティアをする〕

 岡田式健康法の体験、そしてそれを実践しているスタッフやボランティアのみなさんと関わる中で、今度は私が恩返しをしたい、困っている人を助ける番だと思い、2007年6月にMOA会員になりました。2008年には療法士3級の資格を取得、11月からMOAセンターの療法士として毎週1回、ボランティアとして参加するようになりました。
 浄化療法を施術していると私自身とても幸せを感じます。患者さんの幸せを願って心を込めて施術すると、みなさんが喜び感謝してくれます。こうした患者さんの喜ぶ姿を見ると私もとってもうれしくなります。療法士として自信がついてきました。もっともっと多くのことを学び、より良い療法士を目指したいと思います。
 MOAセンターは一つの精神的なオアシスだと思います。苦しい状況から一気にこれまで感じたことのない生きがいを感じ始めているからです。それには健康が一番大事だと学びました。それも心身の健康です。そして自然の美に触れ、全てに命を感じ、生かされていることへ感謝する人生、人やすべての生き物を愛する人生、人のために尽くす人生、以前の私にはなかったものです。私は、この第2の人生を、精一杯人や社会のために尽くして生きたいと願っています。心から沸き起こる今の気持ちです。そうした思いを持った人々を世界中に拡大していきたいと願っています。

*1 チリのMOAセンターには非常勤の医師がいますが、国内、海外の多くは、MOAセンターではなく療院に常勤、または非常勤医師がいます。

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