夫の死の苦しみから立ち上がる

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島根県  K・Iさん(65歳、女性)

〔夫の死〕

 私は夫と昭和42年2月25日に結婚しました。その年に子どもを授かり、長男が生れました。夫の両親からは「幸せに暮らして欲しい、困った時でもちゃんと食べていけるように」と家を建ててもらうなど、本当に可愛がっていただき、幸せでした。
 しかし、翌年の6月ごろ、夫が糖尿病を患ってしまいました。寝込むということはなかったので仕事を続けていました。ただ、それからはよく体調を崩し、1週間ほど入院をすることが度々ありました。病院ではインスリンの注射を打っていましたが、拒絶反応を起こして倒れてしまうこともありました。
 そうした生活を送っていた昭和57年、夫の体調は悪化し、入院することになりました。インスリンが効かず、低血糖を起こしていたようで、翌58年の3月27日、最期は肺気腫で亡くなってしまいました。
 夫の死は全く想像していませんでした。親、親族にとってもそうでした。私たちは夫の両親、親族から本当に可愛がられただけに、夫が亡くなった時の反動は大きいものがありました。“可愛さ余って憎さ百倍”という諺がありますが、「もっと早く病院に行かせれば良かった」とか、私が編み物教室やお花の教室を開いていたことなどを指摘され、親族から「あんたが殺したも同然や」「親不幸者」とまで言われたこともありました。
 話せばとても長くなるほど、この時はいろいろなことがあって、親族との間にわだかまりができました。私は人間不信になってしまい、外出も怖くなってしまいました。

〔心の支えになった花〕

 私の両親は「芸は身を助ける」といって、若いころから編み物とお花の教室に通わせてくれて、編み物は独身のころから教室を開いていました。結婚後も編み物教室は続けました。毎回、15人ほどの生徒さんが来られて、わが家は編み機の音などや話し声で賑やかになり、夫はその様子をいつも楽しんでいました。
 昭和53年にお花の資格を取ってからは、生徒さんのお宅などに出向いて40人ぐらいの方にお花を教えていましたが、夫の死からしばらくの間は教室には行かず、出かけることもなく家で休んでいました。庭を眺めているとふと“花でも育ててみようかな”と思いました。そして、花の種を蒔いたり、球根を植えたり、挿し木をして花を育てました。
 庭の花が咲き始め、それを切り取って夫の墓前に供えるようにしました。すると、花屋で買ってきた花よりもいきいきしていて、長持ちしていることに気づきました。
 このころの私は花を育てることが好きという訳でもありませんでした。でも咲き始めた姿を見ていると、徐々に気分が晴れ、花を育てることが楽しみになっていきました。花を育て、花を見ていると夫を亡くした悲しみやつらさ、親族のことで募る不安が癒されました。
 いつしか、毎朝庭へ出て、「おはよう」などと花に声をかけるようになっていました。“お花から生きる力をもらっている”、“花と一緒に生きている”、そう感じるようになってきました。そして、この体験から“生涯を花に懸けていこう”と思いました。
 夫が亡くなってから3ヶ月後、私はお花の教室を再開しました。

〔親族とのわだかまりが解消する〕

 夫を亡くしてふさぎ込んでいたころ、私にお花を教えてくださったYさんは「私は戦争の引き揚げで、子どもを3人連れて帰ってきた。いろいろ苦労した。あなたは家も与えられて、子どもも与えられて幸せなんだよ、前を向いて生きていきなさい」などと声をかけてくださり、細かなことをいろいろお世話してくれました。また、丁寧にお断りをしましたが、再婚の話まで持ってきてくださったこともありました。
 こうしたYさんの励ましと、花から生きる力をもらった私は、夫の実家に出向くようにしました。夫が亡くなった時はお互いの感情がぶつかり合って、憎しみ合う状態でしたが、まず自分が変わらないと何も解決されないと思い、勇気を出して親戚の家を回るようにしました。
 3年ほど経つと、徐々に関係が回復してきました。向こうも悪かったという思いがあったのだと思います。また、夫の父親が亡くなった時、“I子が困った時には食べるものとかやってくれ”との遺言もあったそうです。いつしか、親戚の家を回っても当時のつらい話はしなくなり、今では昔のように温かく迎えてくれるようになりました。

〔光輪花クラブでの気づき〕

 平成13年、お花の教室が「MOA光輪花クラブ」として再スタートし、私もMOA美術文化財団(現:岡田茂吉美術文化財団)のインストラクターとして教えることになりました。
 光輪花クラブでは、まず生徒さんに花をいけて楽しんでもらうことが基本にあります。私もその通りにしようと意識しましたが、最初のうちは、花をいけると形にこだわってしまって、素直な心で花を楽しむことができませんでした。
 そんな折、光輪花クラブテキストの「はじめに」にある、「美と出合い、美に触れることによって、楽しみながら情操を高めていくことを基本に、師(岡田茂吉先生)の示したあり方に従って、一輪の花をいけることから美的価値の高いいけばなへと学びを進めていきます」との一節が目に留まりました。
 確かに、家で花を育てている時は、一輪の花が咲くと、“本当にきれい”、“いいわね”と感じ、どんなに疲れていても癒され、心が和みます。風雪に耐えて、私たちを楽しませるために一生懸命咲いてくれている花の姿に、自然と「ありがとう」という気持ちになります。“まず自分自身が花を楽しみ、癒され、心が高まっていかないといけない”、そんな思いに変わっていきました。テキストは短い文章だけれども“奥が深いな”と感じました。
 そうした気づきから、形にこだわることをやめて、花をよく見て、触れて、花がどこに向いていけて欲しいのかを感じ取りながらいけるようになりました。

〔光輪花クラブでの出来事〕

 光輪花クラブの開講当時から手伝っていただいている美術文化インストラクターのMさんから、家族の借金問題にはじまり、娘さんが交通事故で亡くなられたり、夫婦関係にも溝ができたりと、家庭問題で苦しまれている悩みを聞かせていただきました。Mさん自身、“家庭を変えていきたい”と願ってクラブに参加しておられました。そのためにも自分の心を明るく変えようと花に触れておられました。私が感動した光輪花クラブテキストの一節を見せて、「まず自分自身が花を楽しむことから始めていきましょう」、そんな言葉を交わしながら、何度も語り合いました。
 すると、Mさんも何か気づかれたようで、花を楽しまれるようになりました。そして、花によって癒される実感が持てるようになったMさんは、家族とともに花を楽しみたいと強く願い、その後、自宅で光輪花クラブを開講されました。4人のクラブ会員の一人はもちろんMさんのご主人です。Mさん自身、花をよく見て、触れていけたように、ご主人の良いところも見つめられるようになったようで、ご主人に心を尽くすこと、自然体で接することができるようになったと喜んでおられました。ご主人も優しくなられ、家庭の中が変わってきたようです。
 こうした体験から、花を楽しむことでその人の心が癒され、ひいては家庭の中も幸せに変わっていくことがよく分かってきました。

〔お花の素晴らしさ〕

 光輪花クラブは本当に楽しいです。昔は毎日、花を買ってきていけていましたが、今は庭や山で咲いている四季折々の花をみんなが持ってくるようになり、一緒に楽しんでいます。みなさんが喜んで花を持ってくるのです。畑で花を育てるようになられた方もいます。
 私もこれまでに本当にいろんな花を育てました。今では80種類以上を育て、冬の一時期を除いて、ほとんど自分で育てた花でいけばなができるほどです。シンビジウムの綺麗な花がたくさん咲き、夏になるといきいきとした向日葵が咲きます。挿し木で育てたバラも本当にきれいな花を咲かせてくれます。
 光輪花クラブでは自然の中から様々なことが学べます。岡田先生の説いているいけばなに対する教えは、人としての生き方、考え方を学ぶこともできます。そして、大自然の花に触れることで人は癒され、変わっていけるとも感じています。

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