ダウン症の子育て

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静岡県  M・Yさん(52歳、男性)
M・Sさん(51歳、女性)

〔結婚9年目に子どもを授かる〕

【Yさん】
 私たちは新潟に嫁いだ姪の紹介で知り合い、平成4年に結婚しました。
 結婚して9年目となる平成13年に待望の子どもを授かりました。待ちに待った出来事でした。そのころ、わが家の建替えが進んでおり、子どものことと家の建替えで希望に満ちあふれていました。
 
【Sさん】
 私は元来身体が弱く、子どもがいなくても夫婦で幸せに暮らしていけるのであれば、それもいいのではないかと考えていましたが、妊娠した時は、本当に驚き、嬉しく思いました。
 高齢出産のために、自然分娩のできる評判の良い病院を探し、新潟の実家から小一時間で通えるK病院を見つけました。
 出産予定日は9月27日でしたが、10月に入っても陣痛がないために、10月4日午後3時に帝王切開で出産することになりました。
 出産して間もなくすると息子が蚊の鳴くような小さな産声をあげました。しかし、看護師は私に「男の子ですよ」と一瞬その姿を確認させただけで、すぐに連れて行ってしまいました。いつになっても子どもがそばに来ないので、おかしいと思って伺うと、19時過ぎに、新生児特定集中治療室(NICU)のある病院に運ばれたとのことでした。胎便を飲んでしまったので、大事をとって転院したと聞きましたが、詳しい状況は分かりませんでした。すぐに夫に電話を入れました。夫は17時過ぎに看護師長から「15時33分、3300g、男のお子さんです」「母子ともに健康ですよ」と電話で聞いていたので、「どういうこと?」と戸惑っていました。
 
【Yさん】
 自宅に帰る途中に妻から電話が入り、「息子が救急車で運ばれた」と言うのです。看護師の方に替ってもらい説明を聞きましたが、状況がつかめませんでした。
 翌5日の朝、会社から看護師長に連絡すると、折返し病院の担当医から電話がありました。担当医によると、羊水に胎便が交じり、これを飲んでしまったこと、また、ダウン症の可能性があり、「大事を取って、新生児室などの施設が充実しているN病院に移しました」と聞かされました。先生から「お父さん、ダウン症をご存じですか?」と言われ、私は「はい。知っています」と答えました。
 私は“そんなことはあり得ない”と、担当医の話を軽く聞き流していました。

〔ダウン症と認定される〕

【Yさん】
 詳しいことが分からず、すぐにでも飛んでいきたい思いでしたが、翌日どうしても手が離せない仕事があり、何とかその日のうちに着く新幹線に乗ることができ、妻が出産したK病院に直行し、担当医と面会しましたが、真っ青な顔をしておられました。妻の容体が無事であることは確認できましたが、息子については状況がよく分からなかったので、すぐに、妻の妹と一緒に息子の入院しているN病院に行き、息子に初めて会うことができました。保育器の中でいろいろな管に繋がっていましたが、元気そうに見えましたので、少し安心しました。
 面会時間は1日1時間と限られていて、面会者は両親のみということでしたが、私が土日しか面会できず、妻は別の病院に入院しているので、病院が配慮してくださり、妻の妹に毎日仕事帰りに妻の母乳を持たせることができ、また岡田式浄化療法の施術の許可も病院からいただくことができました。
 K病院へ戻り担当医と廊下でばったりと会い、「元気そうでした」と伝えると、真っ青だった顔に血色が戻っていくのがわかりました。あらためて、息子は危なかったのかなと思いました。
 
【Sさん】
 夫から転院先の病院の集中治療室での息子の様子を聞き、一安心しました。それからも夫は、ホームビデオで私からのメッセージを録画して息子に聞かせてくれたり、息子の様子を録画して見せてくれたりと、私を元気づけてくれました。
 
【Yさん】
 医師から説明を聞くと、息子は自分で空気が吸えないとのことでした。保育器の中に入って最大限の濃い酸素を送ってやっと息をしている状態です。私たちが普段呼吸している空気は、数値に置き換えると酸素濃度21で、みんな、これを自然に吸っています。息子は、保育器の酸素濃度60という非常に高いレベルの酸素を送っていて少しずつ少しずつこれを下げて、21迄下がらないと表に出られないということでした。43という数値を行ったり来たりしている感じで3週間が1ヶ月に延び、最終的に2ヶ月の入院となりました。
 入院して1ヶ月が経ったころ、血液検査の結果から、ダウン症21トリソミーで染色体が通常より1本多く3本ある先天性障がいと診断されました。ダウン症についてインターネットで調べてみると、患者によって大きな違いがありますが、心臓病・てんかん・うつ・白血病などあらゆる病気が合併症として表れる可能性や、20歳を過ぎると老化現象が始まり、平均寿命が50歳など、信じられないようなことが書いてありました。
 
【Sさん】
 息子がダウン症と聞いて、私は一瞬パニック状態に陥りました。「どうして私たちの子どもが……」と。それからしばらくの間は心の整理がつきませんでした。
 息子の入院は2ヶ月でしたが、この間にも心配するようなことがたくさんありました。レントゲンやMRIの検査のたびに、麻酔をされることや、とても強い薬を使うこと、毎日、熱が38度台に上がり、ミルクに解熱剤を混ぜて飲ませること。当初、入院3週間の予定が、状況が分からないままに日に日に入院が伸び、途中で、「息子さんは、ボンベを使用しての生活になるかもしれません」と言われたこともあり、本当に心配しました。
 また、1日8回の授乳の前に喉と鼻のたんの吸引をするのですが、しばらくすると息子の顔が無表情になっていくのがわかりました。その様子を見るたびに“こんなつらい思いをさせて、代われるものなら、代わってあげたい”と、胸の締めつけられるような日々でした。

〔ダウン症だから助かった命〕

【Sさん】
 N病院の染色体の医師から、「ダウン症の研究に関しては日本でも権威ある先生のところに行かれたらどうですか」とH医師を紹介されました。
 さっそくH医師にお会いしました。N病院の医師から「お宅の息子さんは5分間仮死状態でしたよ」と聞かされていたので、その意味を訊ねてみました。H医師は「普通、健常なお子さんの場合、5分という仮死はなかなか無いのですよ。助かっても3分台です。仮にそれ以上、命がもってもかなり重い障がいになるケースが多いと言われています。あなたのお子さんはダウン症だったから5分という仮死状態でも助かったのですよ」というようなことを言われたのです。
 健常の子は、元気に動くために、酸素をいっぱい吸うことになる。でもダウン症の子は、動きがゆっくりなので、酸素も多少長続きして息が続いたと、“ダウン症だったから命があった、ダウン症だったことを感謝しなさい。”と言っておられるのかしら?
 その時は、“今の私には受け入れられないことだけど、何か意味があること”だと思いました。

〔子育ての中での支え〕

【Sさん】
 ダウン症の子どもは、ゆっくりと成長していきます。少し時間がかかりますが、その道筋は一般の子どもと同じです。H医師と出会って、具体的なアドバイスをそのたびにいただくことができました。早い時期からの働きかけが大切で、微笑えみかけ、目を合せてゆっくりと話しかけをし、また一緒に遊ぶことがいかに大切か教えられました。親がまず実行し、息子が理解して、実行できるようになるまで、根気よく何度も繰り返すように心がけてきました。
 息子の言葉を理解するには聞き慣れるまでに時間がかかることもあり、社会生活の基盤ともいえる「人との関係をつくること」が苦手のようです。まだ心身にアンバランスなところがあり、周囲の方が戸惑う場面も多く見受けられます。私たち夫婦は、何よりも息子が一番つらい思いをしているのだと受け止めて、一緒に取り組んでいます。手を動かし、身体を動かすなどの身のこなしを経験すると自発的な行動に自信がついていくとアドバイスをいただき、親がしてみせて、息子が行動するまで粘り強く、繰り返しています。
 
【Yさん】
 息子が生後3ヶ月の時から東京療院の中にあるMOA高輪クリニックで毎月診察を受けてきました。平成19年1月のことです。息子がゆっくりだけど着実に成長し改善していることを同じダウン症の子をもつお母さんが知り、浄化療法に取り組まれるようになったと、医師やスタッフから伺いました。「H君は人のために役立っていますよ」と言葉をかけられて、本当に嬉しく、感激しました。
 静岡県伊豆の国市にある奥熱海療院のS医師は、息子が生後10ヶ月のころ、発疹や発熱が続き、大変心配して、診療していただいた時から信頼を寄せている先生です。息子が2歳の時に診療を受けた際には、医師ご自身の子育てについて語られ、岡田式健康法が家庭に定着することが大切であること、そして「H君も浄化療法でいきましょう」と言ってくださったことが、私たちにとって、その後の大きな心の支えになっています。

〔小学校へのチャレンジ〕

【Yさん】
 ダウン症の子どもにとって小学校の進路をどうするか、先輩の方から一番大きな難関と伺っておりました。そのことをMOA健康生活ネットワークのみなさんも心配してくださり、お一人の方が仲介となってT県議を紹介していただきました。平成18年、T県議にお会いした時、息子を通して出会った方々とともに「人に優しい街づくりの拡大に息子を使ってもらいたい」「障がい児・一般の児童の両者の能力・人格の発達を促す統合教育が許されますように」との私たち夫婦の願いを伝えました。
 平成19年T県議とF市議がわが家を訪ねられて、日常の息子の様子を見られました。T県議は、息子の手を握って、「チャレンジしよう」と言っていただき、F市議も、「息子さんのことだけを考えてではなく、周りの子どもたちのことを考えてのことですね。分かりました」と言われて、息子が支援クラスのある小学校で一般の児童と共に学べるよう奔走してくださいました。
 また、F市議の奥様や息子の同級生のお母様方から「何かお手伝いすることがあったら言ってください」と心優しいお言葉をかけていただき、勇気づけられました。
 両先生方のご尽力により、教育長から市長へと話が進み、現在A小学校の支援クラスにお世話になっております。入学式には玄関で校長先生から「待ってましたよ」と温かい言葉をかけてもらい、不安な気持ちを和らげていただき、この小学校に入学できて良かったと安心することができました。
 
【Sさん】
 最近では、着替えも自発的にできるようになり、嫌いだった鉛筆やクレヨンや筆で書くこともできるようになりました。小学校の教室からグラウンドの行き帰りも一人でするようになってきました。しかし慣れてくると自分の好きなことをやろうとしたり、勝手に授業を終わりにしたりと暴走するところもまだあります。
 平成21年4月から学校の先生は、息子の階段の上り下りに手すりを使わず、足・腰を強化する指導も行っておられます。また、小学校で一番困難なことに、トイレの問題があり、そのため私も一緒に学校に行きます。5月11日に、息子が教室からトイレへ行き、自らの意志で初めて一人で排泄ができました。感激して泣いてしまうほど、私には嬉しい出来事でした。
 そして5月28日は小学校のリレー集会でトラック半周約60mをほぼ完走(昨年は殆ど歩いて走れませんでした)。また一つ進歩向上です。息子に今何が大事かを日々検討し、取り組んでいただいているお蔭と、感謝しています。
 教頭先生からも「学校と家庭と医療」とで進めていくべきですと言っていただき、H医師やK病院の作業療法士の方にも息子の学校での様子を見に来てくださり、専門家からのアドバイスを先生方と共有させていただいています。

〔どんな些細なことにも感謝する毎日を〕

【Yさん】
 私たち夫婦は、岡田先生 の示された「運命は自由に作られる」「人間は想念次第」などの哲学を生活の拠り所としてきました。
 そうした中で、3年前から感謝ノートを書き始め、日ごろ体験するどんな些細なことからも感謝を見いだそうと、ノートに残しています。
 
【Sさん】
 もともと病弱な私を心配して健康生活ネットワークのみなさんが浄化療法を施術してくださり、また妊娠中も絶えずしていただきました。出産時も、またその後の息子の症状の変化にも絶えず心配していただきました。姑の健康状態も常に気づかってもらい、親子で2、3日家を空けるような場合には姑の面倒をみてくださり、とても一言では言い表せないほど、感謝の気持ちでいっぱいです。
 その感謝を心に、息子と毎晩寝る前に、「Hくんはいろんな人に助けてもらって、こんなに元気になったネ。恩返ししようネ。世のため人のために尽くす人になろうネ」と、小さい時から話しかけてきました。また、MOAインターナショナルの「感謝」の本に『人は常に進歩向上を心掛けねばならない』『去年より今年、今月より来月というように、飽く迄進歩向上心の弛まないよう努めている』、また「素直が一等」に『我を出さない事と、素直にする事と、嘘をつかない事』などの一節を毎日聞かせています。
 時には気分が落ちこんでしまう時もありますが、夫は「どんな小さな出来事にも感謝を見いだしていこうね」と常々言ってくれ、一緒になって子育てに取り組んでくれます。
 
【Yさん】
 母は最近になってダウン症について勉強をしたいということで専門書に目を通しているようです。「孫が成長するのを、この目でみるまでは死ねないわ」と言っており、母が元気でいてくれることに感謝しています。
 また、学校での面談や行事の参加、病院への同行などで月1~2回仕事の休みをいただいていますが、私が息子の成長に関わっていけるのも勤務先の理解があってこそと、勤務先の方々に感謝しております。このように多くの方々にも支えられて今日があることに感謝し、そして息子のような状況にある親子・家族が明るく前向きに生活ができるような優しい街が一つ一つ増えて世界中へと拡がっていくことを願い、私たち親子もいつの日か大勢の人を支えるようになりたいと、常々夫婦で話し合っています。
 
【Sさん】
 私たち親子は、みなさんにいろいろと助けていただきました。その方々に自分にできる何か恩返しがしたいと思いました。
 平成18年に「光輪花クラブ」というお花の教室を開講しました。ちょうど開講した日が、息子の満5歳の誕生日でした。ほかにも、親子対象のお花の教室、「親子講習会」を月1回行なっています。受講者のみなさんとともに学ばせていただくことで、岡田先生の哲学、岡田式健康法の素晴らしさを感じています。
私たちの家の中にいつも花があり、時には家族でお茶を楽しんでいます。息子もいつもそばにいて、喜んでいる様子を見ると、やってきて本当に良かったと思います。
 月に数回、夕食時に間接照明にして、ちょっとだけ優雅な気分で食事をいただくのが、息子が一番喜ぶシーンかもしれません。食事の仕方も、いつもよりゆっくりとキレイに食べてくれます。雰囲気って大事だなと教えられています。
 息子には、礼節の守れる人間として、「ありがとう」「ごめんなさい」と言える人間になってほしいと思いますし、自分の中で発見したり感動したりできる人間になって欲しいと思っています。そして将来は、自分の好きなことに出合えて、そのことを通して、世のため人のために尽くしていってほしい。これが私たち夫婦の願いです。

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