大分県 A・Mさん(49歳、男性)
〔ストレスから適応障害・自律神経失調症になる〕
私は、養護学校の教務をしており、知的障害のある子どもの教育に携わっています。
平成10年、39歳の時に、市内に養護学校の高等部が新たに設置され、授業の傍ら、教育課程を作るなど仕事に追われる毎日を過ごしていました。日中は授業、放課後は教務の仕事、家でも午前1~2時ごろまで、持ち帰った仕事をするという生活を続け、身体を酷使してきました。また、普通高校から異動してきた先生方と教育カリキュラムの問題で対立するようになり、人間関係が大きなストレスになっていました。
そのころ、定期異動で他校に移ることになりましたが、今まで蓄積された過労が一気に出たのか体調を崩してしまい、職場を休むことが多くなりました。下痢症状や不眠によって疲労感や虚脱感が続き、イライラが募りました。“仕事をしないといけない”という思いとは裏腹に体が動かない状態で、“なぜ、自分だけがこんな病気になるのか”“自分はつまらない人間だ”と責めるようになりました。
症状が出始めて約1年後に大分市内の心療内科で診察を受けると、「適応障害と自律神経失調症」と診断され、抗うつ剤、精神安定剤などの薬物治療が始まりました。加えて、担当医の勧めで、平成11年11月から1ヶ月間入院しました。一時的に少し気分が楽になって退院しましたが、職場に戻ると、また症状が表れてくるという状態でした。
〔Uさんとの出会いと岡田式健康法〕
平成12年、母から、「近くにMOA健康生活ネットワークがあり、浄化療法をはじめ、岡田式健康法を受けられるよ」と聞きました。
実はわが家は、祖母が熱心に浄化療法を実践しており、私も母の勧めで高校1年にMOAに入会し、高校3年まで、毎日のように浄化療法を受けていました。しかし、大学に進学して京都に住むようになってからは、全く関わりがなくなり、いつしか浄化療法のことも忘れていたのです。
私は藁をもつかむ思いで、健康生活ネットワークのUさん宅を母と訪ねました。Uご夫妻とは全く面識はありませんでしたが、これまでのいきさつを話すと、「私たちも協力しますよ。いつでもいらっしゃい」と言ってくださいました。それからは、仕事を終えると毎日のようにUさん宅に訪問させていただき、浄化療法を受けました。
Uご夫妻の真摯な姿勢から、“少しでも病状がよくなってほしい”との熱意が伝わり、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。Uさんから浄化療法を受けると、体が軽くなるのが分かりました。また、いろいろと話を聞いていただくことで、ストレスも発散できたように思います。
しばらくして、Uさんから「家庭でも受けられるといいわね」と声をかけていただきました。夫婦で話し合い、妻もMOAに入会しました。それからは夫婦で浄化療法ができる状況になりました。
〔うつ病を発症し休職と復職を繰り返す〕
こうした取り組みを継続していましたが、疲労感や虚脱感に加え、不安感や焦燥感に襲われるようになり、朝起きることができなくなり、平成12年12月には休職し、静養せざるを得なくなりました。翌年5月までの半年間はこのような症状が続きました。
6月に復職できましたが、現場から長い年月離れていたことや、極度の緊張、体力不足が原因で、再び症状が現れてきて、10月から再度休職せざるを得ませんでした。
このころ、某大学の医学部付属病院に良い先生がいるからということで、受診しました。そしてこの時、うつ病と診断されました。その後も、復職したり休職したりを繰り返し、平成15年6月から平成16年1月までは、症状が悪化して、またしても6ヶ月間入院せざるを得なくなりました。
〔追い打ちをかけるような出来事〕
当時私たち家族は、県営のアパートに住んでいたのですが、近所で、「Aさんはずっと休んでいる」という噂が流れ、妻は、「働かないのに給料がもらえるなんて、公務員はいいわね」と、直接嫌味を言われたこともありました。そして、平成14年には、引っ越しをせざるを得ない状況になってしまいました。
妻には、うつ病の苦しみをなかなか理解してもらえませんでした。いつも寝ている私をみて、「もっとしっかりしなさい。早く学校に行きなさい」というきつい言葉をずっと聞かされてきました。ついには、「もうあなたには頼れない、自分で働いて生活する」というようなことまで言われてしまいました。
そのような状態が続く中、平成17年4月に、父が肝硬変で亡くなりました。前日まで元気でしたが、急に容体が悪化し、家族が見守るなか、静かに息を引き取りました。あまりにも急だったので、心にポッカリと穴が開いてしまったかのような寂しさを感じていました。追い打ちをかけるように、義母から「Aさんは、情緒的に不安定であるから、思春期の二人の娘たちに良い影響を与えない」という理由で、私と妻・娘は、別居生活を余儀なくされました。
経済的な理由から、約1年後には、再び同居することになりましたが、別居をはじめて間もなくのこと、当時中学2年生だった双子の長女が、神経性食欲不振症(拒食症)を患い、3ヶ月間病院に入院しました。一時、末期的状況になり、体重が22㎏まで減って、生命の危険にもさらされました。その後は33㎏まで回復し、車での送迎で、学校に午前中だけ通えるようになりましたが、大変な思いをしました。
〔復職を果たし、薬の服用も必要なくなる〕
平成18年6月28日、試行期間を許可するか、しないかの是非を決める審議会が教育委員会で開かれました。
医師、教育指導主事、臨床心理士など、10名の審議官から様々な質問を受けました。これまでは、30分~1時間かけて行なわれたのですが、今回は、15分で終わりました。この15分という短い時間を、どのように受け止めればよいのか大変不安でしたが、「人事を尽くして天命を待つ」と諺にあるように、「あとはお任せしよう」と考えるようにしました。このように肚が決まると、何故か、妙に不安感や恐怖感が薄れ、心に余裕が生まれてきました。
“合格しようと、不合格になろうと、全ては、自分の人生にとって、何らかの意味があることだ”と思えるようになりました。
7月4日に、教頭先生から「審議会に無事合格し、3ヶ月間の試行期間を許可する通知が届いた」と連絡いただきました。
薬も多い時で、毎日23錠、5種類を飲んでいましたが、復職と同時に処方されなくなりました。
〔岡田先生の本を読んで〕
この6年余の間、Uさんには本当に親身になっていただき、継続して浄化療法を施術していただくとともに、何事も前向きに捉え、温かく見守っていただきました。そして岡田先生の本を一緒に読むことで、気づきがあり、岡田先生の哲学に基づく生き方や生活を営むことの大切さを学びました。
私は「~しなければならない」という義務感や負担感を常に抱えたネガティブな思考に陥りやすく、物事にとらわれることで、自分自身を追い詰め、自信を失うという思考の悪循環を起こしていたと思います。物事がうまくいかないのは、自分の努力が足りないからだと自分に言い聞かせ、無理を承知で取り組みました。しかし、自分の努力だけでは解決できない問題や課題があることを、身をもって感じました。
また、Uさんは、平成17年12月から毎月1回、近くの公民館で、地域の方々を対象に料理教室を開いておられます。私も参加するようになり、みなさんに教えていただきながら、励まされながら、慣れない料理づくりに挑戦しました。最初は、女性の中に男性は一人だったので、抵抗がありましたが、だんだん慣れてきて、同じ場所で、みんなと一緒に食事を作って食べることが本当に楽しいと思えるようになりました。
さらにUご夫妻を中心に浄化療法の施術や、料理教室でのボランティアなどを通して、常に寄り添い、支えてくださった健康生活ネットワークのみなさんによって孤独感が癒され、生きる喜びを教えていただいたように思えます。
〔思いやりの気持ちが芽生えて〕
私は、夫婦間や親子間で、意思疎通ができないことが多々ありました。しかし、娘の拒食症による入院、退院を契機に、家族が一つにまとまってきています。
妻も私に対する接し方が変わってきており、日常会話も増え、夫婦間に感謝の心が芽生えてきました。お互い自己中心的だったものの見方、考え方から、相手の立場に立った見方や考え方ができるようになり、思いやりの気持ちが芽生えてきました。
今では、妻が仕事で留守のときなど、子どもと一緒に食事をつくったり、団らんしたりと心の触れ合いが拡がりつつあります。
〔Uさんの手記〕
平成12年にAさんは、お母さんと一緒に来られましたが、その時の状況は、今とは全く違っていました。疲れ果てている状態で、ボーッとされていて、目もうつろで、見るからに病人だと思いました。
それから、学校に行かれているときは、学校から帰るなり、毎日のようにわが家に通って浄化療法を受けられました。休職の間も、毎日休むことなく通われていました。浄化療法を受けられた後、少し話を聞くということをずっと続けました。
「こんなに僕のことを思ってくれてありがとうございます」と言われ、喜んで来られました。一緒に泣いたり笑ったりすることができ、人間として、本当に心が通うようになりました。
料理教室も一緒にやりましたが、Aさんが変わっていかれるのがよく分かりました。何より、笑うことが多くなりました。みなさんが「Aさんの笑い顔はいいよ」と言っておられました。
本当に節目、節目で大きな変化があり、私自身の学びになりました。